#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

「完璧な人生だった。でもフェンタニルですべてを失った」ある医師の告白

「私は若き救急医で、人生は完璧だった。美しい妻、三人の子供、湖畔の美しい豪邸。そして私はフェンタニルにハマり、すべてを失った」

薬物依存で人生がボロボロになったカナダの医者ダリル・ゲビエンさんが書いた回想記事が興味深かったので、以下紹介します。

Disgraced By Darryl Gebien

torontolife.com

私が初めてオピウム(アヘン)類縁物質を体験したのは、一歳の時だった。生まれながらの食道裂孔ヘルニアによって、狂ったように食道が逆流した。私は母乳を飲み込むことができず、栄養失調に陥った。小さく、弱かった。そこである夜、両親のゲイルとモーティ・ゲビエンは私を病院へ連れて行った。私の体は脱水状態で、彼らが食べさせたり飲ませようとするすべてのものを吐き出していた。医者は両親に、その夜を越せるかどうかわからないと心の準備をさせた。それから私を手術室につれていき、痛みのためにモルヒネを投与した。もしかしたら、そこからすべてが始まったのかもしれない。

私は、いつだってストレスとつきあうのが下手だった。八歳になるまで指をしゃぶり、十四歳の時にはタバコを吸いはじめ、決してやめることはなかった。高校では、大麻ばかり吸っていた。周りも皆そうだった。アシッドやエクスタシーもやった。学校では、無気力で、サボったり、家に悪い成績表を持ち帰ることもあった。十七歳だったある日、友達とゴルフに出かけた。家に帰ると、背中が痛み始めた。背骨を手で包まれて強く押しつぶされているような、鈍い痛みだ。その時は知らなかったのだが、私は椎間板ヘルニアだった。寝室の床に横たわり、脊椎が自分の下で動いているように感じた。結果的にはその感覚は去り、私は起き上がった。

翌年、私はリッチモンドヒルの病院でボランティアを始めた。毛布をたたんだり、床にモップをかけたり、棚に備品を入れたり、そんなことだ。その時、初めて医者になろうと考えはじめた。私は、トロントのスカーバロー大学で科学を学んだが、成績は医学校に進めるほどよくはなかった。そこで、モントリオールへ引っ越し、マギル大学で分子生物学の修士を修めた。その後は、オーストラリアのクイーンズランド大学医学部に進み、ミシガンで、緊急医療の研修医として働いた。

二〇〇七年に、私はフロリダで休暇中の両親を訪れた。私はソファーで眠り、夜の間に、背中の脊椎を寝違えてしまった。その時の痛みは、高校の時に感じたよりも、ずっと強いものだった。母は、自分自身背中に問題があり(私が生まれる数年前に濡れた床で滑ったのだ)、処方されていた強力な鎮静剤「ジラウジッド」をくれた。私はそれがあまりに好きすぎた。背中の痛みだけでなく、すべてが溶けだした。それはまるで幸せになる薬を飲んでいるみたいだった。私はすぐに落ち着きを取り戻し、リラックスし、そして、明るい気持ちで、同時にいつもよりもはっきりと目覚めているようだった。その月の後半に、ホッケーをプレイしている最中に親指を捻挫してしまった。病院で、コデインが配合されたタイレノールか、オキシコドンを配合したパーコセットのどちらかよいか尋ねられた時、私は後者を選んだ。パーコセットの方が強力だと知っていたし、それがどれくらい強いものなのか、知りたかったのだ*1。それは素晴らしい感覚だった。フロリダの朝、ジラウジッドを飲んだ後に覚えた感覚と似ていた。私の初めてのパーコセットの瓶には三〇粒の小さな白い錠剤が入っていて、それは約一年間もった。

二〇〇八年、クルーズ船での医師の仕事と、ヘリコプター救急車での仕事の後、私はニューブランズウィック州セントジョンでのERでの仕事に落ち着いた。ある夜、バーでケイティーというブロンドの女性と知り合い、彼女はペインクリニックでの個人的救助の仕事をしていた。私は彼女の明るい青っぽい灰色の瞳の色、これまで見たことがないような色に心を奪われた。何度か挑戦しなければいけなかったが、結局は、彼女をデートに誘い出すことに成功した。二〇〇九年の二月、私はトロントのヨークセントラル病院にERドクターとして戻り、ケイティーと彼女の二歳の娘もそれに続いた。彼らはバサースト通りとスティールズ通りの交差点にアパートを借り、落ち着いた日常が始まった。

私は、トロントで新たなパーコセット三〇錠を背中の痛みのために処方してくれる医者を見つけた。そして、それをもっと頻繁に飲むようになった。数週間もすると、痛みはなくなったので、私は薬を止めた。しかし、残りの薬、多分半分くらいを薬棚に入れて取っておいた。ある金曜日の夜、何人かの友達が遊びに来て、ビールを飲み、プレイステーションでゴルフゲームをやった。私はパーコセット数粒を飲んだ。それは大きな決断というわけではないが、今思えば、その時私は一線を越えてしまったのだとわかる。その時、初めて、完全に娯楽のためにパーコセットを飲んだのだ。それらは、他の方法では手に入らない、ふわふわとした幸せな気持ちをくれた。そのうちに、私は数週間おきにパーコセットの小瓶に手を伸ばすようになった。ケイティーや友達と一緒にキャンプに行く時や、長時間労働の後、ケイティーの娘と遊ぶため、元気が必要な時などに。彼女は、私がハイなことには気づかなかったし、初めはケイティーも気づかなかった。翌年、二〇一一年の初頭に、ケイティーが男の子を妊娠していることがわかり、私たちは、バサースト通りとシェパード通りの交差点に五部屋寝室がある家を買った。

私の両親は、車ですぐのところに住んでおり、孫が生まれたことをとても喜んでいた。彼らは毎週のように遊びにきたけれども、私の母とケイティーは仲が悪かった。ケイティーは、彼らが血がつながっているわけでもないのに、自分の娘の人生に口を出しすぎると感じていた。そして母は、ケイティーの娘が誕生日に電話してこないと機嫌を損ねた。ちょっとした、本気の、そして、想像上のやり取りを経て、母とケイティーの関係は、罵り言葉を極めたEメールで絶頂に達した。私は危険な綱引きのロープと化した。母は、しっかりと自分を持ち「男になれ」と言い、ケイティーは、私が彼女のために立ち上がってくれないと言った。最終的に、ケイティーは彼女か、両親のどちらを選ぶのか、選択を私に迫った。私はケイティーとの生活をうまくいかせることに一生懸命だったので、両親に、もはや家に来ないでくれと言った。その後、ケイティーと私はラスベガスに行って結婚した。それから一年ちょっと経ち、ケイティーは私たちの間の二人目の子どもを産んだ。しかし私の両親は誕生には立ち会わず、そのことで私の胸は傷んだ。

時間が経つごとに、私は、ただ背中の痛みのケアだけでなく、精神的にも薬に依存するようになっていた。初めは、何ヶ月に一回か医者に行っていたが、そのうち毎月、そして何週間に一度になった。医者は、運動して減量することや、物理療法士にかかることを勧めたが、それでもいつも処方箋を書いてくれた。薬を飲み過ぎだとは一度も言われなかった。

二〇一二年の八月、私はバリーにあるロイヤル・ビクトリア地域医療センターのERドクターになり、ケイティーと私は湖畔にある素晴らしい五寝室の家を買った。家にはボートとボート乗り場があり、年収は三〇万ドルほどあった。私はケイティーにレクサスのSUVを買い、その後アウディーのQ7にアップグレードした。しかし、結婚生活は悪化していた。私たちは、いつも喧嘩していた。私の家族のこと、私の子育てのこと。私が彼女の娘のイタズラを叱りつけると、彼女は「パパは単に機嫌が悪いのよ」等と言って私のしつけを台無しにした。またケイティーは私が薬を飲んでいることに気づいた。この段階では毎日二錠から八錠になっていた。薬については、毎週のように喧嘩をした。彼女は、私には助けが必要だと言ったが、私はいつも拒否した。助けを求めるということは二つの意味で問題だった。ひとつは、自分が問題を抱えていると認めなければいけない。二つ目は私がもう物事を好きなようにコントロールできていないことを認めなければいけないこと。薬を飲むことで、なんとか日々を過ごすことが出来ていた。そしてそれを手放す準備が出来ていなかった。私は喧嘩を避けるために、車の中で眠ることもあった。

私が、自分は薬物の問題を抱えているかもしれないと初めて思ったのは、ホームセンターで木材の山の横に立っていた時だった。地下室のリモデルのためにアルミの支柱を大工が選ぶのを待っていたのだ。全くいわれのない苛立ちが全身を襲うのを感じた。何が問題なのかわからないままにパーコセットを飲み込み、すぐに落ち着きを取り戻した。「これって禁断症状なのだろうか?」と思ったが、すぐにそう考えたことすら恥ずかしく思った。私は毎日患者を診察していたが、自分自身が患者だとは思いもしなかったのだ。

医者としてのキャリアを通じて、私は自分は絶対に間違いがないと信じる訓練を受けていた。医学校にいる時からそう言われていた。何があっても休むことはなく仕事に行け、と。だから、自分が困ったことになったと知りながらも、私は助けを求めることはしなかったのだ。その後、何ヶ月も、私は薬を飲み続けた。その年の五月、家族を訪れている時に、禁断症状を感じ始めた。私は母親にフェンタニルパッチをくれるように頼み、彼女は私がただ背中が痛いのだろうと考えて従った。彼女は、モルヒネの百倍も強いオピオイド系鎮痛剤を処方されていたのだ。この強力な薬は、通常、外科医や他の鎮痛剤に対して耐性が出来てしまった慢性痛に苦しむ患者のために与えられていた。透明で四角く、まるで透明なバンドエイドのように見えるそれには二つの層があった。ひとつは薬の成分を徐々に放出する薬が含まれた層で、もう一つは皮膚への粘着剤だ。私は自分の背中にひとつそれを貼り付けて、残りを後のために取っておいた。

約一週間後、私は長時間勤務を終えて家に帰り、グーグルの検索窓に「フェンタニル 吸う方法」と打ち込んだ。子どもたちは子守と一緒に家の近所の公園にいた。私はガレージに行き、フェンタニルパッチを一センチメートル四方の四角に小さく刻んだ。私はそれらを大きめのアルミホイルの上に並べ、一番手前の切れ端の下にライターの火を近づけて炙り、煙が出てくるのを見てそれを吸い込んだ。焼けたプラスチックの甘い香りが鼻孔を満たし、それから肺の奥深くへと吸い込まれていった。それはまるで、力強いが優しい波に押されるような感覚だった。落ち着きが全身を満たした。不安や怖れは消えた。私は椅子に深く体を沈めた。これまでの人生でもっとも強烈なハイだった。自信が漲ってきて、ありとあらゆる問題に対する安心が押し寄せてくるところを想像してほしい。柔らかな幸福感がやってきて、創造性は高まる。全身の感覚が鋭敏になり、これまでに覚醒し、鋭くなっている。周りのすべてが暖かく感じる。そして、それが千分の一秒間の間に一度に怒っているところを想像してほしい。それがフェンタニルを吸引するということなのだ。私は目を見開いたまま、そこに二〇分ほど座っていた。私は天国にいたのだ。

フェンタニルのようなドラッグは、新しい感覚をもたらすわけではない。それは既にあなたが知っている感覚を借りてくるのだ。ハイな感覚が治まってくると、ポジティブな感覚が収まり、ネガティブな感覚が増幅する。そして依存症患者は、ネガティブな気持ちは山ほど持ちあわせている。黒い雲が脳みそにかかり、恐れ、不安になり、イライラし始める。暖かさは失われ、冷や汗と震えが残される。自己嫌悪がやってくる。そして罪悪感。恐れ。悲しみ。パラノイア。初めの興奮状態から降りてくるにつれ、私の体は痛みはじめた。私が考えられることというのはたった一つだけ。それらの感情からなるべく早く逃げること。そしてそのための解決法はたったひとつ「また吸うこと」だけだった。そして、また。また。繰り返すごとに、より深い依存のなかに沈んでいく。その日から、私はフェンタニルを毎日最低でも六回、時には十五回も吸うようになった。

最も恐ろしいのは、私は医者として、自分が何に足を踏み入れているのかちゃんと分かっていたことーーそれでも気にしなかったことだ。フェンタニルは、市場に出回っているなかでもっとも危険なオピオイド系鎮痛剤だ。喫煙することも、注射することも、舌の下で溶かすこともできる。保健大臣のジェイン・フィルポットは、カナダのオピオイド系濫用問題を、全国的な健康の危機だと言った。二〇一五年に、オンタリオでは百六十二人の人がフェンタニルのオーバードーズで亡くなり、二〇一六年の初めの九ヶ月間には、ブリティッシュ・コロンビアで三百三十二人が亡くなった。

医者もこのオピオイド依存問題の一部だ。患者が医者に対して持つもっともよくある不満のひとつは、医者が慢性的な痛みをきちんと治療しないということだ。そして、痛みは主観的であり、診断することが難しいので、医師は患者の言葉をそのままに受取りがちである。去年の後半に、内科医・外科医カレッジは、八十六人の医師を、ガイドラインを越えた量のオピオイド系鎮痛剤を日常的に処方している疑いで調べていると発表した。一人の患者は、一日に一五〇のコデイン入タイレノールを処方されていた。ガンや多発性硬化症などの治療には、非常に高用量の薬が必要なこともある。しかし、私のケースのような他の場合では、制度の濫用が多く見られる。

今思えば、自分の子どもがいる同じ家に薬を置いていたことが、たまらなく汚いことに感じる。初めはガレージのツールボックスのなかに鍵を隠していたが、そのうち、地下室にあるシャワーの椅子に座って吸うようになり、流しの下のパイプの裏にフェンタニルを隠すようになった。私はこんな風に気をつけることで、自分は責任ある父親だと思おうとしていた。私はしっかり父親としての役目は果たしていた。しかし、それでも子どもたちは、「ラリったパパ」を持っていた。まだ彼らが幼すぎてそれを理解できなかったとしても。私は他の父親たちのように、愛情深い父親だと思うようにしていた。夏には子どもたちをビーチにつれていき、小さい子を水に投げ飛ばして、年上の子と手を繋いで、水の中を歩いた。秋にはりんご狩りにつれていき、冬にはソリ遊びをした。他の父親との唯一の違いは、私は一日に十五回地下室に行ってフェンタニルを吸っていることだった。子どもたちの前でハイだったということは、私が自分自身について許せないことだ。

その夏、私の渇望は極限状態だったが、私にはフェンタニルパッチを手に入れる正当な理由がなかった。自分の名前で処方箋を出すことはできないことは知っていた。だから私は考えた。妻のケイティーに対して処方を出し始めたのだ。そして、自分で薬局に取りに行く。しかし、薬剤師がケイティーに対して疑いを持ってほしくはなかった。そこで、私は他の患者のことを誘い始めた。地下室をリモデルしていた業者と仲良くなり、ある時尋ねた。「ちょっと頼みがあるんだけど、いいかな?」私は自分のフェンタニルを取りに行ってくれる誰かが必要なこと、その代わり、彼にパーコセットを供給できると説明した。彼は同意したので、私は彼に二つの処方箋を書いた。ひとつはパーコセット。ひとつはフェンタニル。彼は二つを受取り、パーコセットを手元に置く。ある夜、私には薬の持ち合わせがなく、禁断症状が襲ってきた。ケイティーと喧嘩をした私は、家を出た。タクシーに乗り、待ちに出た。あまりに必死で、タクシーからタクシーを乗りつぎ、見知らぬ人の窓をたたき続けた。「交換取引に興味はないかい?パーコセットをあげるから、フェンタニルを取りに行ってほしいんだ」初めの三人は興味がなかった。しかし四人目は承諾した。八月から十月までの間に、二人の助手と一人の看護師を言いくるめて、鎮痛剤を取ってきてくれるようにした。報酬を支払ったことは一度もない。ただ、痛みがひどく、自分の名前で処方箋は書けないのだと説明した。私は彼らをひどい立場に置いたが、それが大きなことであるとは言わなかった。「大したことじゃない」と私は言った。彼らは私が苦しんでいるのを目にし、助けた(後に、彼らはそのせいで解雇されることになった)。十六ヶ月間で、私は偽の処方箋を使って四百四十五枚のフェンタニルパッチを手に入れ、毎日それを吸った。

家庭では、ケイティーとの関係はボロボロだった。サポートしようとする代わりに、ケイティーは私を怒鳴りつけ、私は怒鳴り返すか、無言で無視した。「また吸うのね!」地下室に行く私を見つけるたびに彼女は叫び、離婚すると脅かした。彼女は私をジャンキーだと呼んだ。

私は、仕事の前には決して吸わなかった。しかし、禁断症状を押さえるために、パッチを貼り付けてはいた。あまりにも渇望が強いので仕事を去らなければいけないことが二回あった。私は三十パウンド以上痩せ、頬骨はこけ、イライラするようになった。同僚から大丈夫か聞かれた時、私は「家庭に問題があるんだ」と答えた。彼女はそれ以上聞かなかった。

母は私がボロボロになっているのに気づき、私は知らなかったのだが、病院に電話をかけて「私が薬物問題を抱えているかもしれない」と言った。私の上司と院長が電話してきて、ミーティングを開き、何か彼らが知っておくべき問題があるかどうか尋ねた。私は嘘をついた。「ケイティーとの関係がうまくいっていないけれど、それ以外は問題はない」と。彼らは依存症とメンタルヘルスについてのパンフレットをくれて、そして私は仕事に戻った。

私は戦術を変えることに決めた。それからの四ヶ月間、私は、他の医師から私に対する処方箋を偽造した。薬局に行き、スタッフにうまいこと言って--大抵それは同じ男だった--病院にFAXを送らないでくれるように頼んだのだ。薬局は忙しい医者に面倒をかけるのを嫌う。それを利用したのだ。薬を取りに行く度、私はすべてを危険にさらしていた。仕事、家庭、自由。でも気に留めなかった。

二〇一四年の十一月のある日曜日、薬剤師はインフルエンザの予防接種をするのに忙しく、私に話しかけてこなかった。そして彼は処方箋をFAXした。もっと頑張って邪魔しようとすることもできただろう。でもそうしなかった。計画し続けることで私は摩耗しきっていた。ERでそのFAXを受け取ったのは、私がフェンタニルパッチ十二枚の処方箋のために署名を偽造した医者その本人だった。その時私は知らなかったが、彼は、私の上司に報告をした。心配しながら二十分ほど待った後、薬剤師が手を振った。「実は、在庫切れなんです」と彼女は言い「最後の在庫」だという何枚かのパッチを手渡した。私は何も知らずに家に帰った。

二日後、救急医療の主任と、スタッフ主任が医師の更衣室に入ってきた。彼等は「処方箋の偽造のことを知っている」と言った。薬局は偽造に気づいて、警察に電話したこと、もう私はそこで働くことはできず、無給で休まなければならないこと、医師免許が停止されること……。私は死ぬほどビビった。嘘まみれの中、捕まることの恥というのはとんでもなかった。私は家族のために恐れたし、仕事をクビになることとか、他人に何を言われるかが怖かった。本当は、ただ生きているだけでラッキーだと思うべきだったのだ。この段階では、私はただの骨と皮の袋と化していた。私はまだ漠然とした未来への不安を抱えていた。でも、そこで一番に感じたのは、予期しない安心感の波だった。人生がガラガラと音を立てて崩れ落ちているのだが、少なくともそれを否定することはできなかった。

私は自宅で逮捕された。警察は私に三つの偽造罪を問い、裁判所に呼び出した。三日後、ゲルフにあるホームウッド健康センターという、精神科医に勧められた施設に五週間入院した。一万ドルの請求書は両親が払ってくれた。そこで、医者は「急速な離脱」を行うことで、強烈な禁断症状を起こさせ、それを薬物の抑止力とするべきだと決めた。はじめに医師は、オピオイド依存の治療薬サボキソンをくれた。サボキソンは、体内の麻薬を求める部分を満たしてくれるが「ハイ」な気持ちにはならないという薬のだ。サボキソンが切れた時は最悪だった。エンドルフィンレベルがガクンと下がり、脳の回路が自然に入れ替わる。死ぬんじゃないかと思った。歩こうとすると、身体は丸まり、首は落ち、腕はまっすぐに胸にくっつき、回復体勢になった。

耳鳴りがガンガンしていた。体温がおかしいように上下した。寒さを抑えるために、熱いシャワーを浴びたかたとおもったら、外を走り回り、顔に氷を当てたりしていた。私は医者に、この痛みにはもう耐えられないと言ったことを覚えている。彼は禁断症状を回避するため、サボキソンをもう二グラム投与することに合意した。それは単に避けられないものを遅らせているだけだということは分かっていたが、気にしなかった。辛すぎたために、バスの目の前に身を投げ出してもよいくらいだった。身体がバラバラになっていくおうだった。スプーンを口元に持っていくだけで疲れ果て、坂を登るとぜいぜいと息切れがした。翌日は進歩しているかのように思えたが、三十二時間後には禁断症状の苦しみのなかにいた。病院のベッドに横たわり、昼寝を取った。四時間後に目覚めると、弱々しさは消え、縮こまっていた四肢はまっすぐになり、内蔵も普通に戻っていた。地獄からの一週間は終わったのだった。

リハビリに入って十四日目に、ケイティーが子供たちを連れてきた。彼女は子供たちに私は病気なのだと説明し、彼らはホームウッドは普通の病院だと思っていた。息子にどうしてその日一緒に退院できないのか聞かれた時のことは決して忘れないだろう。

退院して家に戻った時は奇妙だった。ケイティーは、五週間一人で子供たちの世話をしたことで疲れ切っており、間もなく私たちは昔のように言い争いをするようになった。私はソファで眠り、仕事は相変わらず休職中だったので毎日暇だった。

依存症には、喪に服す期間というものがある。そして私は自分が選んだドラッグを失ったことを悲しんでいた。羞恥と自己嫌悪、合理化と無関心のサイクルが戻ってきた。そこで私は対処するためにいつでもやることに戻った。残されていた古い処方箋の用紙を使って、フェンタニルの処方箋を書いたのだ。警察に監視されていることには気づかなかった。

一週間以内に、私はまた一日に十五回ハイになる生活に逆戻りした。一月四日のある日、私はどれくらい吸ったのか分からなくなるくらい吸って、オーバードーズで地下室のシャワー室の椅子で倒れた。顔色は腐ったような緑色で、顎にはよだれが垂れ、乾いた舌が開いた口から飛び出していた。ケイティーがやってきた時、私はほとんど息をしていなかった。彼女は、私がハイになった姿、突然のエネルギーに満ちた姿、しゃがれた声と収縮した瞳孔を見たことがあった。しかし、その日は違った。いつもより長く地下にいたし、私の顔がそんな風になっているところは見たことがなかった。頭のなかの霧のなかで、彼女が叫んだのを覚えている。「救急車を呼びます!」と彼女は泣いていた。私はショックで覚醒して、腕を跳ね返した。麻薬パイプは飛んでいった。私は何度か息をすると、頭を垂れてトイレに直行し、嘔吐した。「死んだかと思った」とケイティーは言った。私は彼女に救急車を呼ぶ必要はとないと言い、結果的に彼女は言い争いに疲れてそれに従った。数時間後、私は再び椅子に座って別のパッチに火をつけていた。

二〇一五年の一月十九日の朝七時、バリー薬物犯罪ユニットからきた十人の警官が私の家の前に姿を表した。もしもどん底というものがあるのなら、その日に私はそこに達したのだ。三匹の飼い犬の鳴き声で目を覚ました私は窓の外を覗き、外に警察がいるのを見た。私は下着姿でドアを開けた。「申し訳ないのですが、あなたの生活はもう二度と同じものではないでしょう」一人の警官はそう言った。私は犬を裏庭につなぐ時間を貰えないか頼み、警官はそれを許可した。もう一人の警官は、上に行きケイティーに「彼女も逮捕される」と告げに行った。警官はケイティーも共犯だと誤解していたのだ。警察は私が着替え、ガレージでタバコを吸うことを許してくれた。そして、子供に見られないように、家の外に出る時に手錠をかけた。私は警察署に連れて行かれ、薬局から嘘をついて七十二回分のドラッグを手に入れた罪、さらには六つの処方箋の偽造について罪を問われることになった。

一月十九日から二月五日まで私は、保釈を待ちながらペネタングウィシンの北部矯正所で過ごした。私は元気がなかった。そこの二階には、吹き抜けの階段があり、コンクリートの床があった。そこに頭から飛び降りれば死ねる、と私は思った。私はそこで友達になった男に自分の計画を話すと、彼は私を横に引っ張って「おい、この野郎、ちょっと待てよ」と言った。

「お前には、嫁さんもガキもいる。死ぬなんて一番自分勝手なことだぞ」私は自分の部屋に戻った。私はリハビリに初めて行って以来、長いことドラッグを取っていなかったため、急性の禁断症状は感じなかったが、それでもひどい空腹感は覚えていた。それは回復後のよくあるサインだった。あまりに空くので、朝食のフレンチトーストについてくるシロップを飲み込むくらいだった。刑務所のルームメイトはスナックをくれた。ライスクリスピーとか、ケチャップチップスとか、ツインクスバーとか。

両親の助けを得て、私は8万ドルの保釈金を払うことができた。保釈の条件は、私が両親と一緒に彼らのコンドに住むことだった。荷物を取りに、短い期間自宅に戻った。ケイティーは子供のために安定した環境を望んでいたため、十日後に彼らをニュー・ブルンズウィックに戻した。私はとても悲しかったが、どうすることもできなかった。

四月に、私はスパディナとブロアのところにあるレナッセントクリニックに二度目のリハビリを申し込んだ。そこには四週間滞在した。毎日近所を散歩する途中でホームレスを見かける度に、私は自分で認めたくないことだがそこに近づいていっていることを考えた。私のお金は底をつきつつあり、結婚生活はおそらく終わるだろうし、友達の輪は小さくなっていた。私は初め元司法長官のマイケルブライアンや、CBCのホストであるジアン・ゴメシを代理していた弁護士を雇っていた。初めの支払いはクレジットを使って三万五千ドル分払ったが、その後弁護士を変えた。私はまだバリーの住宅ローンを払っていたし、そんな高い弁護士料を払い続けることはできなかった。

八月に、私はウッドブリッジにある、ヴィタノヴァファンデーション回復センターに足を踏み入れた。ここもまた国の資金で運営されている施設だった。それだけ長く入ればよいのかはわからなかった。センターは無料のリハビリプログラムと、寮のような住居を影響してくれた。そこで数週間を過ごすうちに、自分の強さと明晰さが戻ってくるのを感じた。

二〇一五年の十一月二日、それは私の四十五歳の誕生日だったが、父が電話してきて、母が亡くなったと告げた。彼女はベッドの中で五〇mgのフェンタニルパッチを貼り付けたまま動かなくなっていたのだ。普段彼女が使っていたのは二十五mgのパッチだった。その日は人生最悪の日だった。もう二度とドラッグをやるまいと、倍の努力をした。私はヴィタノヴァ回復センターを出て、父のコンドに戻った。私は過去二年間そうしてきたようにソファーで眠り、数日に一度は子供たちとフェイスタイムで話した。でも自分が父親になれる気はしなかった。私は社会のサポートを受けながら生きていた。父の年金は二人を養うには十分ではなかったので、出来る時は家賃をいれた。

母の死後しばらくして、バリーの家は売った。この先数年間はそんなに働かないだろうと考えながらも、お金のほとんどはケイティーに渡した。私は古い友だちと一緒に床の会社を経営している。そしてドラッグはやっていない。

でも、身体は完全に回復してはいなかった。短期記憶はとぎれとぎれだし、右の耳はよく聴こえない。そして生まれて初めてパニックアタックにも苦しんでいる。

二〇一六年の四月、私は破産申請をした。ケイティーは数ヶ月後に離婚届けを送ってきた。カップルとしてうまくやっていければと望んではいたけれど、私は理解した。二月になって子供たちが私の元にやってきて一週間一緒にすごした。五歳になっていた息子に会い、初めて一緒にスケートをした。娘は四歳で、トイザらスで見つけたおもちゃに夢中になっていた。私は彼らに何を起こっているのかは説明せず、ただ、もうすぐ話したいとだけ言った。何が起こったのか理解するのは、彼らは幼すぎる。それに彼らが何が起こったか知ったときに、どう思われるか心配だ。私が回復したことを誇りに思ってくれるとよいなと思う。でもその日は遠い先のことになるだろう。

二〇一六年の十二月、私は有罪を認め、司法取引の一貫として、ケイティーへの訴追は免れた。私は自分に対する判決を待っていた。検察官は、八年間の求刑をしており、私の弁護士は自宅監禁が妥当だと抗弁していた。おそらく裁判官は、刑務所で数年間というところに落ち着けるだろう。父はアルツハイマー病の初期状態になっており、私がいない間彼がどうなるのか心配だ。ケイティーと子供のこともだ。私の人生が、反面教師的なもになってしまったことを恥ずかしくは思うが、私は自分が捕まったことに感謝している。もしも逮捕されていなければ、今頃死んでいただろうから。

私が刑期を終えて出所するころには、私のようなケースの場合通常そうであるように、医師と外科医大学の懲戒委員会に直面しなければいけない。私の医師免許は今停止中だが、おそらく完全に剥奪されるだろう。もしそうでなければ、また私は医者として活動したいと思っている。できれば依存症の分野において。私が医者になったのは、人々を助けられるからだ。私は自分の人生はをめちゃくちゃにしてしまった。でも、他の人が同じような運命を辿ることがないよう、助けることはできる。


二〇一七年、四月十八日、ゲビエン医師に対し、二年間の懲役刑が言い渡されました。

http://www.ctvnews.ca/canada/former-er-doctor-who-wrote-fake-fentanyl-prescriptions-sentenced-to-2-years-in-prison-1.3374853


フェンタニルは、痛みを押さえるために処方されるオピオイド系の鎮痛剤であり、マイケル・ジャクソンやプリンスなどが使用していたことでも知られています。アメリカではこのようなオピオイド系鎮痛剤の濫用が問題となっています。日本で逮捕されたトヨタの女性役員が使用していた鎮痛剤「オキシコドン」もフェンタニルと同じオピオイド系です。

*1:コデイン<バイコディン<オキシコドンの順に強く、オキシコドンが一番強い。