ピクサー新作、『ファインディング・ドリー』を観たので感想を書きます。
『ファインディング・ドリー』は2003年の大ヒット映画『ファインディング・ニモ』の続編です。ニモとマーリンなどはそのままに、1年後、今度はドリーを主役として、彼女の「家族探し」の旅が描かれています。
あらすじ
『ファインディング・ニモ』から1年。ドリーは、家族について、断片的な記憶が蘇ってくるのに気づきました。魚の学校でエイ先生から、故郷に帰ろうとする魚の習性「回遊」について教わって以来、ドリーは自分の両親を見つけなければいけない!という思いにかられるようになったのです。「カリフォルニアの、モロ湾の宝石」に住んでいたという曖昧な記憶を元に、両親を探そうとするドリーに、マーリンは反対しますが、ニモに説得され、しぶしぶドリーの両親探しを手伝うことに。ウミガメのクラッシュの助けを経て、カリフォルニアへとやってきます。巨大なイカに襲われ、もう少しでニモが殺されそうになったことに怒ったマーリンは、ドリーに対し「忘れることしか取り柄がない」と捨て台詞を吐いてしまいます。傷ついたドリーは、一人海の表面にさまよい出て、海洋生物研究所のボランティアにより「救助」されてしまいます。
ヒレにタグをつけられ、隔離所に運ばれたドリーは、7本足のタコ「ハンク」と出会います。海でひどい目にあったハンクは、野生の海に戻るよりも、水族館で生きたいと考えているハンクは、タグのついた生物はクリーブランドの水族館へ運ばれることを知っており、ドリーのタグと引き換えに、ドリーの両親探しを手伝うことを了承。
ドリーは、かすかに蘇る記憶を手がかりに、生まれ育った海洋生物研究所の内の水槽へと移動する過程でかつての友達であるジンベイザメの「デスティニー」と再会。デスティニーは目が悪く、プールに頭をぶつけてばかり。さらにシロイルカのベイリーはエコーシステムをうまく使えません。そんな「個性豊か」な友達と力を合わせ、かつて住んでいた水槽に向かうドリー。そこに両親はいるのでしょうか?
そして、マーリンとニモはドリーと再会できるのでしょうか?
感想(ネタバレあり)
非常によくできた映画だと思います。全米アニメ映画として過去最高という驚くべきボックスオフィスの売上をみても、この映画が大好評で受け入れられているのがわかります。美しいCGとコミカルな動物たちの姿を描きながらも「家族愛」や、障がいについて、さらには、海と人間とのつきあい方についても考えさせられる、ピクサーらしい心配りもある作品です。
でもね。でもね。わたしはこれ「面白かった」「大好きな映画」と単純に言うことができません。なぜなら、個人的には、観るのが辛すぎて、冒頭から涙が止まらなかったからです。それも「感動」とかっていうより……。なんだろう。身につまされすぎるというのか……。とにかくドリーの「忘れっぷり」に泣けて泣けてしかたありませんでした。
忘れすぎるドリー
前作『ファインディング・ニモ』を観た方は既にご存知だと思いますが、ドリーは「忘れん坊」です。
ちょっと前のことをすぐ忘れてしまいます。今まで何をしていたのか?なぜここにいるのか?何度も同じ質問を繰り返します。脳天気なように見えるドリーには、これまでのなかで、親とはぐれ、何度も忘れてきたゆえの悲しみや深い孤独があるのです。そして、その「忘れ」のレベルは単なる「忘れん坊」のレベルではありません。
え、それも忘れてしまうの?これも忘れてしまうのか……。
若年性アルツハイマーがテーマとなった『アリスのままで』でも主人公はどんどん物を忘れていき、その様は悲劇的でもあるのですが、なぜかそこでは感じなかった「悲しさ」をドリーでは感じました。
それは、ドリーの状態を「悲劇」とすら感じることが許されないような演出がされていたかもしれません。「幸運のヒレ」を持つニモをはじめ、デスティニーも、ベイリーも……。多くのキャラクターは「人と違う」ところを持っており、大人であれば、ニモの裏テーマが「障がい」であることはすぐにピンとくるところです。でも、この映画ではそれらは、キャラクターたちが乗り越えるべき「苦難」としては描かれておらず、「個性」として自然と描かれています。
映画を子供たちも、「可愛いキャラクターの個性」として捉えているのを見ると、「こんなになんでも忘れてしまうなんて……」と泣いてしまう自分の感じ方が間違っているような気もしました。でも劇中で「悲劇であること」を許されず、(時折寂しさを感じさせる演出はあるものの)あくまで基本的にはハッピーに話が展開していくからこそ、やっぱりわたしはそこに悲しみを覚えてしまったのです。
「親子愛」の描写
ドリーの物忘れっぷりに加え、もう一つわたしが泣けてしかたなかったのは、ドリーの両親との関係です。
今回、「可愛すぎる」と話題の子供時代のドリーが登場します。両親は忘れっぽいドリーを心配し、さまざまなトレーニングを通じて、ドリーが他の魚たちとうまくつきあっていけるように、そして家を忘れることのないようにと教えます。当然忘れっぽいドリーはうまくできなかったりするわけですが……。それでもドリーの両親は我慢強く、そして愛情深くドリーを抱きしめます。
こういう無条件の両親の愛情、みたいのに憧れているわたしはこれを観た段階でもうね泣けて泣けてしかたありませんでした。もちろん両親には両親の心配事があり、ドリーが寝た後に「あの子は生きていけるのかしら……」とか泣いてたりもします。ここには『ニモ』から引き続く、親が子供のことを心配するという形での親子愛が表現されており、実は、子供は、親のコントロールを離れても意外とちゃんと生き延びていける……というのは、前作『ファインディング・ニモ』の時から共通するメッセージなんですよね。
ドリーも「お母さんは紫色の貝が好き」とか覚えていて貝を集めてきたりとかいろいろやるわけですが、そんな時に、とうとう幼い時に両親とはぐれてしまいます。それ以来「誰か助けて」「家族とはぐれちゃったの」と色々な人に助けを求めながらも「忘れてるんなら助けられないよ」と突き放されてきたドリー。ドリーが大きくなっていく様が実に数十秒で描かれるのですが、その瞬間「ドリーはこんなに愛されている両親と離れて育ったんだ」というのがわかって悲しくてしかたありませんでした。うう〜!ドリー‥…。
『ファインディング・ニモ』の後半でも描かれていましたが、マーリンに出会う前のドリーは、ずっと一人(一匹)で生きてきたんですよね。ドリー自身は持ち前の人懐っこさと忘れっぽさでそんなに辛くなさそうではありますが……。それでも、やっぱり「家族に会いたい」という気持ちはこみ上げてきたわけです。
ドリーがようやく生まれ育った水槽にたどり着き「ここが家だ〜」と訪ねて行ったところで……ここもわたし号泣でした。
ドリィー!!!!!
例えば、ドリーは、ドリーならではのやり方で生き延びてきており、映画の後半では、マーリンやニモが「ドリーならどうするだろう?」と考えピンチを打開するほどのユニークな考え方を持っています。普通であれば、短所が目立つような友達の長所を見つけることができたり、どんなに辛い状況においても「泳ぎましょう。泳ぎましょう。どんどんどんどん泳ぎましょう〜♪」と前に進み続ける力を持っています。
その後、結局ドリーは両親と再会できるのですが、そこでは嬉し涙が溢れてきました。
うえーん。よかった……よかったよードリー!!!
このように、映画はちゃんと前向きな気持ちになるようなメッセージを込めて作られているのに、「これは映画だからいろいろなことが都合よくいってよかったけど、現実にはドリーはちゃんと生きていけるのだろうか」とか考えてしまって、辛くなってしまったのです。
あーっ、もう、本当に考えすぎですね……。素直に楽しめばよいのでしょうけど。
わたしは、ピクサー映画を普通に楽しむには、大人になりすぎてしまったのかもしれないです。
「何にでもなれる」の裏テーマとして「差別」を描いていた『ズートピア』とかは、それでも、意外と映画のノリに入り込めたんですけどね……。
『エンド・クレジット後』まで見逃すな!
あ、そうそう。
『ファインディング・ニモ』を観た人は、是非『ファインディング・ドリー』のエンドクレジットの最後まで席を立たずに観ていてくださいね。
嬉しい驚きが待っているはずですよ!
レズビアンカップルが初登場?
ところで『ファインディング・ドリー』には、「ピクサー映画史上初めてレズビアンカップルが登場しているのでは?」と囁かれています。
omg finally, Pixar put a lesbian couple in #FindingDory this is the time to celebrate 🎉 pic.twitter.com/uPiV1nFp7A
— grace (@ItsGraceBoylan) May 24, 2016
彼らの登場は一瞬のことなので、レズビアンともそうでないとも言い切れません。友達同士かもしれないし、姉妹かもしれません。でもこのように「ゲイカップルかもしれない」と解釈できる「家族」の表象が登場すること自体に意味があるんだと思います。
何よりドリーを演じているエレン・デジェネレスは、今アメリカでもっとも影響力があるレズビアンでもありますしね。「レズビアンかも?」と想像するくらい、許してくれることでしょう。
評価
- チビドリーが可愛い度 ★★★★★
- 泣ける度 ★★★★
- 子供に見せたい度 ★★★★★
日本での公開予定
『ファインディング・ドリー』は2016年7月16日に公開が予定されています!