#あたシモ

アメリカで働くレズの徒然

「神様」を探して -- いがらしみきお『I【アイ】』

えっ!『かむろば村へ』が映画化されたんだって? しかも、ま、松尾スズキ監督だってぇぇ?

しかし、まずは、『I【アイ】』について書きたいのだ。

photo by Zengame

かつて、中村珍の『羣青』目当てで購読していたIKKIに連載中の作品のなかで、松本大洋『Sunny』と並びもっとも惹かれたのが『I【アイ】』だった。

宮城県の田舎町に生まれたイサオオと雅彦。孤児のイサオは醜く、貧しく、いじめられっ子だが、何か不思議な力を持っている。一方、医者の息子として、恵まれた環境で育ったオレこと雅彦は、小学生の頃から、自分が生きていることの意味についてひそかに、 深く悩んでいた。二人は、イサオが生まれた時に見た神様「トモイ」を探す旅に出る……。

この漫画を読みはじめてから、押し寄せてくる既視感が半端なかった。

「あんたはわたしですか?」って気持ち悪くなるくらい、「オレ」のモノローグが胸に迫った。

そして、そこにずばっずばっと気持ちよく刺さってくる、イサオの言葉。

わたしは「オレ」つまり、雅彦だった。それは何もわたしが特別なのではなく、多くの人がイサオではなく雅彦側の人間だろう。そして、まるで何かを悟っているかのように振る舞う「よくわからない存在」、つまり「イサオ」に強く興味をひかれる。イサオの、確信に満ちた言葉に耳を傾け、そこに「答え」を探してしまう。

わたしたちにとって、「世界」はわからないことだらけだ。

「わたしたちが生まれる前、この世界は存在したのか?」
「死んだらどこへ行くのか?」

わからない。不気味。怖い。そのことについて、本気で考えだすと、頭がおかしくなってしまうため、わたしたちは「それ」について普段は考えないようにしている。でも、その「世界」のことを、まるで知っているように振る舞う人がいるとしたら?わたしたちは、そんな存在にすがりつく。自分にとってわからないものを説明してくれる言葉を探す、そして、「自分と、世界の間を橋渡ししてくれる何か」つまり救済システムを探す。

それは、ある人にとっては、「おかじま人間牧場」かもしれない。 ある人にとっては、キリスト教の教会や、仏教のお寺かもしれない。 シャーマン、スピリチュアリズムサイケデリック体験、神、悟り、何でもよい。

でもさ、そういうってさ、ちょっとうさんくさいよね。「オレ」がおかじま人間牧場で感じるどうしようもない違和感の描き方にそれは現れているんだけど。人々に求められている役割をそれらが果たしているのはわかるんだけど、それらは本当に「それ」について理解しているんだろうか?と。

I【アイ】』を読んで思い出したことがある。子供の頃、新興宗教の教会や合宿に何度か送られた。シェアハウスに住んでた時は、「ありがとう村」に心酔して通っているシェアメイトがいて、ありがとうございますシールをあちこちに貼ったり貰った本を読んで語りあったりもした。神様はいるのだろうか?わたしたちはなぜ生まれてきたのか?わたしはずっと、「答え」を探してきたけど、どこに行っても納得できる答えは見つからなかった。

「ありがとうございます」は幸せを呼ぶ魔法の言葉です (ありがとうおじさんの本 (3))

「ありがとうございます」は幸せを呼ぶ魔法の言葉です (ありがとうおじさんの本 (3))

イサオは、既存の「救済システム」を、そこに存在する「気持ち悪さ」をも含めて冷静に見つめ、違う角度から「そういうもの」を求めてしまう人間たちを救おうとする。どこかで聞いたことがあるようなありきたりな言葉ばかりを並べ立てるスピリチュアリズムにうんざりしている人間にとって、イサオのようなアプローチは新鮮かもしれない。

不満といえば、「神様」がいるものとして描かれている点だ。

漫画の途中から、イサオの「不思議な力」は現実に存在するものとして描かれる。

「相手の心のなかに入る」というあたりであれば、暗示だったり、催眠術であったり、さまざまな解釈が可能だ。しかし、徐々にイサオが移動したりする姿が描かれるなど、イサオの「神性」が直接的に描かれるようになっていく。

しかし、現実には「神様」はそんなにわかりやすく姿をあらわすことはない。漫画のなかのイサオの力は、間違いもなく「本物」だが、それを「本物である」と簡単に描ききってしまったところに、残念さを感じた。現実には、あるものが「本物」であるかどうかは、最後までわからないことが多い。だからこそ、「イサオもどき」はどこまでもわたしたちの心を惑わすのだ。

また、「オレ」の描き方にも違和感を覚えた。神様を探すための極端な行動がエスカレートしていき、痩せこけて、自分の目をつぶし、最後には、それなりに「神様」の存在を自分自身で感じられるようにまでなる「オレ」。最後には傍の凡人からみたら、半分くらい「神様」に近づいているような存在になってしまう展開には落胆した。

裕福な家庭に育ち、そこそこイケメンで、女の子にもモテる、いわば「現世利益」の申し子であるかのような「オレ」は、だからこそ、まったく異なる宇宙に生きているかのようなイサオに強烈に惹かれ、近づいていったに違いないのに、途中から、彼自身の極端な振る舞いは、周囲からみればまるでそれ自体が聖性すら感じられるようである。失明し、耳も聞こえなくなった状態で、小さな「神様」の像を作りだし、それが人々から求められるようになる「オレ」。それは本当に「オレ」の求めていたものだったのだろうか?

「あちら側」に行ってしまった「オレ」に対してはもうそこまで共感ができなかった。いつまでも現世にしがみつき、お金や心地よい生活を捨てることのできないわたし、「オレ」にはなれないわたしの嫉妬が混じっているのかもしれないが。

イサオだけでなく「オレ」まで「あっち側」に行ってしまった後は、完全に取り残された気分だった。

また、『I【アイ】』の後半では大震災が起こり、現実世界とのオーバーラップが起こる。これは、作者が予定していたものなのだろうか?あまりに大きすぎる「震災」という事件を経て、わたしたちの考え方と共に、漫画内世界のルールまで何か変わってしまったのではないか……。軽いフラストレーションが残った。読み終えた後も、頭の中でずっと『I【アイ】』の投げかけた質問がぐるぐる回って熱が出そうだった。

I【アイ】 第1集 (IKKI COMIX)

I【アイ】 第1集 (IKKI COMIX)