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虹の向こう側

【翻訳】「書類がない移民」としての人生 -- アメリカの「不法移民」とはどんな人なのか?ピューリッツァー賞を獲ったあるジャーナリストの回想記

政治 人種 移民 アメリカ

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現在、オバマ米政権が打ち出した400万人以上の不法移民に対する強制送還の延期計画をめぐり、テキサスを始め、26州が起こした違憲訴訟の審議が最高裁で行われています。裁判官たちの意見が割れていることもあり、多くのメディアの注目を集めていますが、ここで、今現在もアクティブに活動しているホセ・アントニオ・バーガス(Jose Antonio Vargas)について紹介します。

ホセ・アントニオ・バーガスは、サンフランシスコ・クロニクル紙、フィラデルフィア・デイリー・ニュース紙、ワシントン・ポスト紙、そして、ハフィントン・ポストなど多くのメディアに執筆してきたジャーナリストです。2008年には、彼のバージニア工科大学銃乱射事件についての報道がピューリッツァー賞を受賞しました。バーガスは2011年の6月「書類がない移民としての僕の人生」という記事を発表し、自らの移民法上のステータスを公表しました。

この記事のタイトルになっているundocumented immigrant(書類がない移民)とは、いわゆるビザや滞在ステータスなど、アメリカ国内において滞在を合法とする移民法関連の書類がないという意味です。これは、いわゆるillegal aliens(不法移民)という言葉の「不法」という言葉に対する抗議として選ばれている言葉でもあります。「書類がない移民」という直訳はこなれませんが、「不法移民」とそのまま訳すと"undocumented"という言葉が選ばれた意味合いが全く消えてしまう。「ビザなし移民」くらいだとわかりやすいのかな~。しかし、厳密にはビザ、滞在ステータスや、労働許可は全て異なるため、これも正確ではありません。そこで、「書類がない移民」としておきました。

以下は「"My Life as an Undocumented Immigrant"」の翻訳です。内容については必ず原文を参照ください。また誤字脱字、誤訳等等がございましたら、お手数ですがご指摘ください。迅速に対処させていただきます!

「書類がない移民」としての人生

ホセ・アントニオ・バーガス

約二〇年前のある八月の朝のこと。私の母親は私を起こしてタクシーに乗せました。彼女はジャケットを手渡してくれ「Baka malamig doon」(あちらでは寒いかもしれないから)と言いました。母、叔母それに家族づきあいをしていた仲間たちと一緒にフィリピンのニノイ・アキノ国際空港につくと、私は私の叔父だという、それまで会ったことのない男性に紹介されました。私は彼に手をとられ、生まれて初めて飛行機に乗りました。一九九三年。私は一二才でした。

母は私によりよい暮らしをしてほしいと望み、アメリカに住んでいた彼女の両親--私にとっては祖父(ロロ)と祖母(ロラ)--と一緒に住むように、何千マイルも遠く離れた場所に私を送り出したのです。サンフランシスコの近郊にあるカリフォルニア州マウンテン・ビューについた後、私は六年生に編入し、すぐに新しい家や家族や文化が気に入りました。私は語学を学ぶことに情熱を傾けましたが、正式な英語とアメリカの俗語の違いを学ぶのは大変でした。一つ覚えているのは、中学校でソバカスのあった子どもが「What's up?」と聞いてきた時のことです。私は「空」と答え、彼と周りの子ども達に笑われました。八年生の時にあった綴りテストでは優勝しましたが、自分の覚えた綴りを持つ単語を正しく発音することはできませんでした。(その単語はindefatigableでした)

一六才になったある日、私は運転免許を取るために近所のDMV(※運転免許証や身分証明書を発行する役所)まで自転車で行きました。私の友達数人は既に免許を持っており、私もそろそろいいだろうと思ったのです。しかし、アメリカ在住であることを証明するために窓口でグリーンカードを渡すと、受付の係員はそれをひっくり返し調べて「これは偽物ね」と言ったのです。彼女はささやきました。「もうここに戻ってきたらだめよ」

私は混乱し、怖くなって、自転車で家に帰り、祖父を問いつめることにしました。祖父がガレージに座り、クーポンを切り取っていたのを覚えています。私は自転車を倒すと、祖父のところに走っていきました。「Peke bai ito?(これ、偽物なの?)」私はタガログ語で尋ねました。祖父母はアメリカに帰化したアメリカ市民でした、祖父は警備員として働き、祖母はウェイトレスとして働いていました。私が三才の時、彼らは、フィリピンにいた私と母に送金を始めました。私の父は浮気者で、私と母をきちんと養うことはできず、二人が別れた後のことでした。祖父は立派な人でした。しかし、グリーンカードや他の偽造書類を私のために買ったのだと教えてくれた時、彼の顔に羞恥の色がはしったのを私は見ました。「他の人に見せるんじゃない」彼はそう警告しました。

私は誰にも自分がアメリカ人ではないのでは、という疑いを持たせるようなことはしないと心に決めました。私は自分自身に言い聞かせました。もしも一生懸命働いたら、もしも何かを成し遂げることができたら、その見返りとして自分はアメリカ人になれるはずだと。頑張れば手に入れることができるような気がしていました。

私は頑張りました。過去一四年間、私は高校を卒業し、大学にも行き、ジャーナリストとしてキャリアを築きました。アメリカでもっとも有名な人々にもインタビューしました。表面的には、私はよい生活を送っていました。私はアメリカンドリームを手にいれていたのです。

私はそれでも「書類のない移民」でした。それは違う種類の現実を生きることでした。いつバレるんじゃないかと怯えながら一日を過ごすことでした。本当の自分としては、人々を信じず、最も親しい人々であっても、信じることは稀でした。家族について友達から尋ねられないように、家族の写真を棚の上に飾るのではなく、靴箱の中にしまっておきました。本当に気が進まないし痛みすら感じながらも、間違っているし違法だとわかっていることをやらなければいけない、そういう生活でした。それは、言ってみれば二一世紀の地下鉄道の支持者達--私のような人々の未来を気にして私ために危険を犯してくれるような人々--に頼ることを意味していました。

去年、私は、マイアミからワシントンまで「ドリーム法案」のロビイングのために歩いた四人の学生についての記事を読みました。ドリーム法案とは、約一〇年間もの間審議されている移民法案で、この国で教育を受けた若者に対して合法滞在への道を開くという内容のものです。彼らは強制送還--オバマ政権は八〇万人近くの人々を既に強制送還しています--される危険を犯してまで、この法案を通すために活動しているのです。

アメリカには、一千百万人以上の「書類のない移民」がいるといわれています。彼らは、常にあなたが想像するような人々であるとは限りません。イチゴ農園で働く人もいれば、子どもの世話をする人もいます。高校に行き、大学に行く人もいます。そして、中には、あなたが読んでいるニュース記事を書いている人がそうだったりもするのです。私はここで育ちました。ここが私の家です。私は自分がアメリカ人であり、アメリカが自分の国だと思っているのに、私の国は、私のことをその一部だとは思わないのです。

私が一番はじめに苦労したのは、言葉でした。フィリピンでも英語を学んではいましたが、私は訛りを消したかったのです。高校時代、私は何時間もテレビ番組(Frasier、Home Improvement、The Golden Girlsなど)や映画(Goodfellasから『赤毛のアン』まで)を観て過ごしました。私はビデオを一時停止して、様々なキャラクターが単語をどのように発音しているか真似しようとしました。地域の図書館では、雑誌や本や新聞、英語をよりよく書くために学べそうなものなら何でも読みあさりました。私の高校の先生だったキャシー・フェワーは私にジャーナリズムを紹介してくれました。私は学校の新聞に記事を書きはじめました。アメリカ人をインタビューした英語の記事と自分の名前がそこに印刷してあることは、私がここにいることを正当化してくれるような気がしたのです。

「不法移民」についての論争は、私の不安を大きくしました。私がフィリピンからやってきたたった一年後の一九九四年にカリフォルニア州知事のピート・ウィルソンは再選され、その理由の一つは彼が提案一八七号を支持したからでした。提案一八七号は書類のない移民が公立学校や他のサービスを利用することを禁止するというものでした(この提案は後に連邦裁判所により違憲だとされました)。DMVに行った一九九七年以降は、私は「移民は同化しようとしない。彼らは社会を弱体化させる」といった反移民の機運や偏見により気づくようになりました。「彼らは私のことについて話しているわけじゃない」、私はそう自分に言い聞かせました。「私は社会のためになっている」 と。

そのために、私は働かなければならず、働くためにはソーシャル・セキュリティ番号が必要でした。幸運なことに祖父は私のために番号を手に入れてくれていました。いつも祖父は家族の世話をしてくれていたのです。彼と祖母は田んぼと竹でできた家のあるようなフィリピンのザンベイル州という地域に住んでいましたが、一九八四年に合法的にアメリカに移民しました。祖父の妹がフィリピンアメリカ人の軍人と結婚し、彼女は、彼女の弟とその妻が一緒にアメリカに来れるように永住権の申請をしたのです。彼らがアメリカに来た時、祖父は彼の二人の子ども--私の母と彼女の弟--のために永住権の申請を出しました。しかし、その時、祖父は 、既に結婚していた私の母が独身だと申請してしました。アメリカ市民は、結婚している子どものために永住権を申請することはできなかったし、祖父は私の父親のことはどうでもいいと思っていたからです。祖父は私の父親に一緒にアメリカに来てほしくはなかったのです。

しかし、祖父はすぐに移民局が私の母が結婚していることを発見するだろうと不安になりました。そして、私の母だけではなく叔父の分の永住権申請も取り下げたのです。一九九一年、叔父が合法的にアメリカに来た後、祖父はもう一度私の母のために観光ビザを取得しようとしました。しかし、ビザは取れませんでした。その時、母は私をアメリカに送ると決めたのです。母親は後で「自分も後で行くと思った」と私に言いました。しかし、彼女がアメリカに来ることはありませんでした。

空港で「叔父」だと紹介された男性は親戚ではなく、コヨーテ(※移民の送り込みを請け負う団体)だったと祖父は後ほど説明してくれました。祖父は有り金をかきあつめて、彼にとっては大金であった四五〇〇ドルを工面し、偽名と偽造パスポートを使って私がアメリカまで来られるように手配をしたのです(私はアメリカに来て以来二度とパスポートを目にしませんでした。そして、いつもコヨーテがそれを持っているのだと思っていました)。私がアメリカについた後、祖父は今度は私の名前の偽造パスポートに、偽造学生ビザ、そして、偽のグリーンカードを手に入れたのです。

この偽造パスポートを持って、私達は地元のソーシャル・セキュリティ・オフィスに行き、ソーシャル・セキュリティ番号とカードを申し込みました。そんなに長くかからなかったと思います。カードが送られてきた時、そこには私のフルネームが書かれており、「労働許可がある場合のみ有効」とはっきり書かれていました。

私が仕事を探しはじめた時、それはDMVで運転免許を取ろうとした直後のことでしたが、私と祖父はソーシャル・セキュリティ・カードをキンコーズに持って行き「労働許可がある場合のみ有効」という文字を修正テープで消し、コピーを取りました。これでこのコピーは、制限がないソーシャル・セキュリティ・カードのコピーであるかのように見えました。

祖父は、いつも私が多くの書類がない移民がするような低賃金の仕事をするものだと思い込んでいました(「アメリカ人と結婚しさえすれば、全てがうまくいくよ」と祖父は言いました)。しかし、つまらない仕事であっても移民書類は要求されました。そこで彼と私は、偽造した書類で当面のところはうまくいくように望みました。書類が多ければ多いほどいい、と彼は言いました。

高校時代はサブウェイで働きました。それからYMCAのフロントデスク、それからテニスクラブ、そして、マウンテン・ビュー・ヴォイスという地元の新聞社での無給インターンシップの仕事につきました。はじめはコーヒーを入れたり、雑用をしたりしていましたが、徐々に市議会での集会の取材や他の仕事を有給で行うようになりました。

一〇年以上、フルタイムでもパートタイムでも働いてきた中で、雇用主にソーシャル・セキュリティ・カードの原本を見せるようよう要求されたことはほとんどありませんでした。もしもそう言われた場合は、私はコピーを見せ、彼らはそれを受け入れました。また、時間が経つと共に、私は雇用の時に記入するI-9フォームには「アメリカ国民」の欄にチェックを入れるようになっていました(永住権を持っていると言うと外国人登録番号を要求されてしまうので、それより、アメリカ国民だと言ってしまう方が楽だったのです)。

このインチキはいつまでたっても簡単になることはなりませんでした。やればやるほど、自分が詐欺師であるような気がして、罪悪感はどんどん大きくなっていきました。捕まるのではないかという不安も一層大きくなりました。でも、私はやり続けました。私は一人で生き延びる必要があり、こうやって生きていくと決めたのです。

マウンテン・ビュー高校は私にとって二番目の家になりました。私は生徒会で学校の代表に選ばれ、それによって、私達の学校区の指導官だったリッチー・フィッシャーと出会い、友達になることができました。私はスピーチとディベートチームに参加し、学校劇で演じ、そして学校の学生新聞オラクルの共同編集者となりました。学校の校長パット・ハイランドは私に「あなたは私と同じくらいずっと学校にいるのね」と言いました。パットとリッチは私を導いてくれる存在となり、長い時間を通じてまるで両親のような存在となりました。

二年生の時、合唱のリハーサルの後、指導者だったジル・デニーは日本への演奏旅行を考えていることを私に言いました。私は「お金がない」と言いましたが、彼女はなんとかすると言います。私はためらいましたが、彼女に真実を告げることにしました。「本当はお金じゃないんです」私はこう言ったことを覚えています。「僕、正しいパスポートを持っていないんです」彼女が、手続きをすれば大丈夫だと私を安心させようとした時、私はようやく言いました。「僕は、ちゃんとしたパスポートが取れないんです。僕は、本当はここにいちゃいけないんです」

彼女はわかってくれました。演奏旅行はハワイになり、私も参加することができました(ミセス・デニーと私は数ヶ月前に話しました。彼女は「生徒の誰も置き去りにしたくはなかった」のだといいます)。

学校生活のもっと後で、歴史の時間に、ハーヴィ・ミルクについてのドキュメンタリーを観ました。彼はゲイであることを公にしていたサンフランシスコ市議員で、殺されてしまった人です。それは一九九九年で、マシュー・シェパードがワイオミング州のフェンスに縛り付けられて殺されてから六ヶ月後のことでした。議論の時間に私は手を上げて言いました。

「ハーヴィ・ミルクがゲイであることによって殺されてしまったことについて、本当に遺憾に思う。ずっと長い間言おうとしてきたのだけれど、僕はゲイだ」

私はその朝カミングアウトしようと予定していたわけではありませんでした。でも自分がゲイであることはもう何年も前から気づいていました。その日そう宣言したことによって、私は学校でただ一人のゲイであることを公にしている生徒になりました。祖父母とはそのことで大きな騒動が持ち上がることになりました。祖父は私を数週間家から追い出しました。最終的には仲なおりしたものの、私は祖父を二つの意味でがっかりさせてしまいました。一つは、カソリック教徒として、祖父は同性愛は罪であると考えており、“ang apo na bakla”(ゲイの孫)を持つことは恥だったということです。もう一つ、更に悪いことには、祖父によれば、私は自分のために状況をより難しくしてしまっていたのです。永住権を得るためには、アメリカ人女性と結婚しなければならなかったのですから。

カムアウトはとても難しいことでしたが、私の移民法上のステータスを告白するよりはゲイであることを告白することの方が楽なように思えました。私は自分のもう一つの秘密を懸命に隠しました。

クラスメイトたちが大学からの合格通知を受け取るのを待っている間、私は卒業後にマウンテン・ビュー・ヴォイスにてフルタイムで働きたいと考えていました。大学に行きたくないわけではありませんでしたが、州の奨学金にも連邦の奨学金にも申し込むことができなかった私は、大学に行くお金がなかったのです。

しかし、私がパットとリッチに移民法上の「問題」--これからこの言葉を使うことにします--について告白した時、彼らは解決策を探す手伝いをしてくれました。はじめに、彼らはどちらかが私を養子にすることで何とかならないかと考えました。しかしリッチが相談した弁護士によると、私の年齢では、養子になることでは滞在を合法にすることはできないことがわかりました。結局、彼らは家族の中ではじめて大学に行く将来有望な生徒に対する奨学金を紹介してくれました。その奨学金は、移民法上のステータスとは関係なく申し込むことができたのです。私はその奨学金に申し込み、サンフランシスコ州立大学の学費、生活費、そして書籍や他の経費などをまかなうことができました。

大学一年生の時、サンフランシスコ・クロニクル紙でのパートタイムの仕事を見つけました。そこで郵便物の整理をしたり、寄稿記事を書いたりしました。私は報道の仕事を見つけたいという野心を持っていましたので、多くのインターンシップを行いました。はじめは、二〇〇一年の夏にフィラデルフィア・デイリー・ニュース紙です。そこで私は車からの発砲事件や、NBA選手の結婚式の記事などを執筆しました。これらの実績を元に、私はシアトル・タイムズ紙に応募し、翌年の夏のインターンシップの仕事を得ることになりました。

しかし、またそこで、移民書類がないことが問題になりました。シアトル・タイムズ紙の人事部のパット・フォートは全てのインターンに対し、初日に書類一式を持ってくるようにと言っていました。生誕証明書かパスポートもしくは、運転免許証にソーシャル・セキュリティ・カードの原本です。私は、自分の書類がこのチェックを通らないと考えてパニックに陥りました。そこで、私は仕事を始める前にパットに電話し、彼女に自分の移民法上のステータスについて告げました。パットは経営陣と相談した後、電話をかけなおしてくれ「インターンシップはできない」という、私が恐れていた答えを口にしました。

これは壊滅的でした。もしも自分の望む職につけないのだとしたら、大学は一体何だったのでしょうか?私はその時覚悟を固めました。「真実を伝える」はずのジャーナリストという職業で成功したいのであれば、自分についての真実は伝えることはできないのだと。

この出来事の後、私の奨学金をスポンサーしてくれたベンチャー・キャピタリストであるジム・ストランドは移民弁護士を雇うための資金を払うと申し出てくれました。リッチと私は彼女に会うために、サンフランシスコの金融街へ赴きました。

私は希望を持っていました。それは二〇〇二年の初めのことで、ユタ州選出のオリン・ハッチ上院議員とイリノイ州のディック・ダーヴィンが「ドリーム法案」を提案した直後のことでした。それは、私が自分自身に言い聞かせていたことの法律版であるかのように見えるものでした。もしも頑張って働いて、社会に貢献すれば、全てがよくなる、と。

しかし、移民弁護士との面会は私の希望を打ち砕くものでした。彼女によれば、私の唯一の選択肢はフィリピンに帰り、一〇年間のアメリカへの入国禁止期間を待ち、それから合法的にアメリカに帰って来られるように申請することだというのです。

リッチもがっかりしていたのかもしれませんが、彼はそんな様子を見せませんでした。「とりあえず問題は棚上げしておこう。それはそれ、これはこれだ。とりあえず前に進もう」

私はそうしました。二〇〇三年の夏、私は全米中のインターンシップに応募しました。ウォール・ストリート・ジャーナル紙、ボストン・グローブ紙、シカゴ・トリビューン紙を含む複数の新聞が興味を示してくれました。しかし、ワシントン・ポスト紙が仕事を呈示してくれた時、私は自分の行きたい新聞がどこかわかりました。そして今度は、私は自分の「問題」について認めるつもりはありませんでした。

ワシントン・ポスト紙での仕事にはやっかいな要求もありました。運転免許証が必要だったのです(カリフォルニア州のDMVでの一件以来、私は一度も免許証を持っていませんでした)。私はマウンテン・ビューの公立図書館にこもって各州での運転免許証の申請資格について調べました。オレゴン州はもっとも簡単に免許が取れる州の一つのようでした。数時間北にドライブすれば、オレゴン州はすぐそこでした。

この時もまた私は助けてくれる人に恵まれました。一人の友人の父親がポートランドに住んでおり、彼は住所を私がオレゴン州に住んでいることの証明に使うことを許してくれました。パットとリッチ、そしてリッチの長年のアシスタントのマリー・ムーアはこの住所に向けて私宛の郵便物を送りました。リッチは、どうやって駐車場で三点ターンをするか教えてくれ、そして友達は一緒にポートランドに来てくれました。

運転免許証は私にとって全てでした。それがあれば、運転ができ、飛行機にも乗れ、そして働くこともできたのです。私の祖父母は私のポートランド行きについてもワシントン・ポスト紙でのインターンシップについても心配していました。祖母は私が捕まらないように毎日祈ってくれ、祖父は、私が大きな夢を見すぎて危険な橋を渡っていると警告しました。

私は自分の夢を追いかけると決めていました。私はもう二十二才で自分の行動の結果については責任を持てる年だと彼らに言いました。でもこれは、おじいちゃんが困った孫をキンコーズに連れていくのとはわけが違います。今回は私は自分が何をやっているのかわかっていましたし、それが正しいことではないということもわかっていました。でも私は他にどうすればよかったのでしょうか。

私は州税も連邦税も払いながらも、正当でないソーシャル・セキュリティ・カードを使っており、雇用のための書類には嘘の記載をしていました。それでも、そうすることは、祖父母やパット、リッチ、ジム達に頼ったり、全然覚えていない国に戻ったりことよりもよっぽどマシだと思えました。私は自分に言い聞かせました。勤勉に働き、自立し、そして国を愛するという「アメリカ人」であるための資格を満たせば、全てはうまくいくはずだと。

ポートランドのDMVにソーシャル・セキュリティ・カードのコピーと、大学の学生証、それにサンフランシスコ・クロニクル紙からの給与証明書、それにオレゴン州に住んでいるという証明--私の支援者がポートランドの住所に私の名前で送ってくれた郵便物--を持っていきました。計画はうまくいき、私は運転免許証を手に入れました。免許証は二〇〇三年発行で、八年後の私の誕生日二〇一一年の二月三日に失効することになっていました。私には仕事で成功するために八年間の猶予が与えられました。そしてその間に何か移民法の改正が行われてアメリカに居続けることができるようにと私は望みました。

それは、まるで永遠のように長い時間のように思えました。

ワシントン・ポスト紙で過ごした夏はウキウキするものでした。大きなニュース部屋には萎縮しましたが、私にはベテラン雑誌記者のペーター・パールという指導者がついてくれました。インターンシップをはじめて数週間後、彼は私が書いた記事の一つ(それは、長い間行方不明だった財布を取り戻した男の話でした)を印刷し、初めの二段落に丸をつけて私の机の上に置きました。「細かい所にも目配りされている。素晴らしい!」と書き込んでありました。その時はまだ知りませんでしたが、ペーターは私の支援者になってくれるのでした。

夏の終わりに、私はサンフランシスコ・クロニクル紙に戻りました。私は既に四年生であり、クロニクル紙で働きつづけながら、学校を卒業しようと考えていました。しかし、ワシントン・ポスト紙から、大学卒業後の二〇〇四年六月からスタートできる二年間のフルタイム有給インターンシップの仕事の呈示が来たのです。これは断るには条件がよすぎるポジションでした。私はワシントンに引越しました。

レポーターとしてワシントン・ポスト紙で働き始めて四ヶ月が経った頃、私は自分の額に「不法移民」と刻印されているような気がして、徐々にパラノイド的に感じるようになりました。首都ワシントンではどこに行っても不法移民についての議論がされていて、決して終わることがないように思えました。私は、自分自身の能力を証明しようと望むあまり、自分が同僚や編集者にとって鬱陶しい存在なのではないかと恐れ始めました。プロのジャーナリストたちの一人が私の秘密を暴いてしまうのではないかと心配しました。不安のあまり、体が麻痺してしまうほどでした。私は誰か、会社の上層部の人間に自分の状況について打ち明けなければ、と心を決めました。そして私はペーターを選びました。

今もワシントン・ポスト紙で働いているペーターは、当時新聞の編集室の訓練と職業開発に関するディレクターとして経営陣の一部となったところでした。ある一〇月の午後、私たちはホワイトハウスから数ブロック離れたラファイエット広場を散歩しました。ベンチに座っていた二〇分ほどで私は彼に全てを話しました。ソーシャル・セキュリティ・カードのこと、運転免許証のこと、パット、リッチ、そして家族のこと。

ペーターは驚いていました。「これで、君のことが一〇〇倍よく理解できるよ」と彼は言いました。彼は言ってくれたのは正しい判断だったといい、これからはこの問題は共有された問題だと言いました。彼はすぐに行動を起こしたくはないと言いました。私はまだ雇われたばかりでしたし、自分自身のことを証明しなければいけないと彼は言いました。「君が充分にやりとげたら、ドンとレンに一緒に言おう」(ダン・グラハムはワシントン・ポスト社の会長であり、レオナルド・ダウニー・ジュニアは新聞紙のエクゼクティブエディターでした)一ヶ月後、私はワシントンでのはじめての感謝祭をペーターと彼の家族と共に過ごしました。

それからの五年間、私は「充分にやりとげる」ために頑張りました。私はスタッフライターに昇格し、ビデオゲーム文化や、ワシントンでのHIV/AIDSの流行について、また二〇〇八年の大統領選挙におけるテクノロジーやソーシャルメディアの影響について記事を書きました。私はホワイトハウスを訪れ、補佐官をインタビューし州の食事会を取材しました。私はシークレットサービスに、虚偽の書類を元に手にいれたソーシャル・セキュリティ番号を渡しました。

私は移民問題について報道することをなるべく避けようとしましたが、完全にそうすることはできませんでした。私はヒラリー・クリントンの書類を持たない移民の運転免許証に対する立場について記事を二回書きました。またフロリダ州選出の上院議員であり、その後、共和党国家委員会の会長であったメル・マルチネスについて記事を書きました。マルチネスは、共和党の大統領候補ジョン・マケイン--廃案となった移民法案の共同執筆者--がスペイン語ネットワーク団体ユニヴィジョンが主催した討論会に参加することを表明してようやく、共和党のラテン系に対する立場を擁護したのです。

それは奇妙なダンスでした。私は編集室の激しい競争社会の中で頭角を表そうと必死になっていましたが、同時に目立ちすぎれば、余計な詮索されるのではないかと怯えてもいました。私は自分の恐れを押し込めようとしました。他人について報道することで気を紛らわそうとしました。しかし、自分の人生の真ん中にある矛盾からできることはできませんでした。ごまかしをあまりにも長く続けると、自己イメージが歪みます。そのうちに、自分が何者になってしまったのか、それはいったいどうしてなのか?疑問を抱くようになるのです。

二〇〇八年の四月、私はワシントン・ポスト紙内で、その前年に起こったバージニア工科大学銃乱射事件を報じ、ピュリッツアー賞を獲ったチームの一員でした。前年に祖父は亡くなっていたので、発表の日に電話をかけてきたのは祖母でした。彼女は開口一番こう聞きました。“Anong mangyayari kung malaman ng mga tao?”

人々にバレたら何が起こるんだい?

私は何も言えませんでした。電話を切った後、私は編集室の四階にあったトイレに急ぎ、座って泣きました。

二〇〇九年の夏、私は経営陣とフォローアップの話をすることもなく、ワシントン・ポスト紙を辞め、ニューヨークに引越し、ハフィントン・ポストに移籍しました。私はワシントンプレスクラブ基金の食事会でアリアナ・ハフィントン(※ハフィントン・ポストの創設者)に出会い、新しい仕事は学べることがあるだろうと思ったのです。

この移籍について、私はまだ不安を持っていました。多くの企業は、国土安全保障省が候補者が合法的に働く移民法上のステータスを持っているかどうか調べるために作ったEベリファイというプログラムを使い始めていましたし、新しい雇用主がその一つかどうかはわからなかったのです。でも、いざとなれば他の新聞社でも仕事を得ることはできるだろうと考えた私はいつものように書類を記入し、うまいこと給与明細をもらうことに成功しました。

ハフィントン・ポストで働いている間、更なるチャンスが訪れました。HIV/AIDSについて私が書いた連作記事が『The Other City』というドキュメンタリー映画になったのです。その映画は昨年トライベッカ映画祭で上映され、ケーブルチャンネルショータイムで放送されました。私は雑誌に執筆を始め、夢の様な仕事をもらいました。ニューヨーカー誌のために、Facebookのマーク・ザッカーバーグの人物紹介を書く、というのです。

仕事で成功すればするほど、私はより怯え、より憂鬱になりました。私は自分の仕事に誇りを持っていましたが、仕事や私自身にはいつも雲がかかっていました。私の八年間というデッドライン--オレゴン州の運転免許証の有効期限--が迫ってきていたのです。

それから一年も経たない頃、私はハフィントン・ポストを辞めることを決めました。理由の一つはドキュメンタリー映画を宣伝し、インターネット文化についての本を書きたかったからです。少なくとも友人にはそう説明しました。しかし、本当の理由は、システムの一部になろうと長い間努力し、職業上の成功に全力を傾けた後で、どんなに仕事上で成功しようと、問題の解決にはならないし、また感じていた喪失感やここにいるべきでないといった感覚を和らげてもくれないということが分かったからでした。なぜ週末のメキシコ旅行に行けないのかについて友達に嘘をつきました。経費は全て会社持ちのスイスへの出張を断るための口実をでっち上げたこともありました。そして、私は一人の人と長く恋愛することがあまり好きではありませんでした。いつも祖母の言葉が頭の中にこびりついていました。人々にバレたら何が起こるだろう?

今年の初め、私の三〇才の誕生日の二週間前に、私はささやかな猶予期間を得ました。私はワシントン州の運転免許証を手に入れたのです。この免許証は二〇一六年まで有効です。これで後五年間、人に見せられる身分証明書を持っていることになりました。しかし、同時にその五年間は恐れに満ちた時間であり、そして私が尊敬し、私のことを信頼してくれている人々や団体に嘘をつかなければいけない時間でもあり、そして自分自身から逃げ続けなければいけない時間でもあるのです。

私はもう逃げ続けるのは真っ平です。もう疲れ果てました。もうこんな風にして生きていきたくはありません。

そこで、私は決めたのです。今まで何をしてきたのか白状し、記憶の許す限り正確に私の人生について語ることを。私はかつての上司や雇用主に連絡をとり、騙していたことについて謝りました。秘密を打ち明けるたびに、屈辱感と開放感の入り混じった感情に襲われました。この記事に登場する全ての人々は、記事中に名前を使うことを許可してくれました。私は家族や友人たちにも自分の状況について語りました。そして今、どういう選択肢があるかについて法律相談も受けている最中です。自分の話をこうしてすることが、どういう結果を生むのか、わかりません。

私は、私がよりよい人生を送れるチャンスを与えてくれた祖父母にとても感謝しています。そして、私の他の家族--アメリカで見つけた私の支援者のネットワーク--が私に夢を追いかけるよう力づけてくれたことに対しても、とても感謝しています。

私が母親に最後に会ってから一八年間が経ちます。初めは、私をこんな目に合わせた母親に対して腹を立てていました。でも後は、怒りにまかせて充分な感謝をしていなかった自分自身に腹を立てました。大学に入ったあたりでは、母親と私が電話で話すことすらほとんどありませんでした。あまりにも辛かったのです。単に彼女と、私の腹違いの兄弟のためにお金を送る方が簡単でした。私がアメリカに来た時にもうすぐ二才だった妹は、今ではもうすぐ二〇才です。私は一四才の弟には一度も会ったことがありませんが、是非会ってみたいと思います。

最近、母親に電話しました。遠い昔のあの八月の朝の記憶について、ギャップを埋めたかったのです。私たちは今まで一度もその日のことについて話したことがありませんでした。私の中の一部は、その記憶を脇に押しのけて置きたかったのです。でも、この記事を書くために、そして私の人生に起こった事実と向き合うために、私はもっと詳しく知る必要がありました。私は泣いたのでしょうか?彼女は?私たちはさようならのキスを交わしたのでしょうか?

母親は私はスチュワーデスに会ったり、飛行機に乗れたりすることに喜んでいたと言いました。そして、彼女はアメリカに馴染むためにアドバイスとして彼女が教えてくれたことを思い出させてくれました。もしも誰かになぜアメリカに来たのか聞かれたら、私は「ディズニーランドに行くんだ」と答えなければいけなかったのです。

原文: http://www.nytimes.com/2011/06/26/magazine/my-life-as-an-undocumented-immigrant.html

アメリカの移民については、こちらの記事もご覧ください

yuichikawa.hatenablog.com


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