久しぶりにセクシャリティーの話をします。
わたしはもうホントかなり長い間セクシャリティについてブログを書いてきました。
それがきっかけでイチカワユウと出会ったという読者の方も多いと思います。
自分では、LGBTだけが自分の核ではないと思っているので、ツイッターでもブログでも、海外移住について書いたり、ガジェットについて書いてみたり、ビジネスについて書いてみたり、フェミニズムについてとか、人種についてとか、いろいろ書いてみるんですが、一番皆が鮮やかに反応してくれるのって、やっぱり「LGBTネタ」なんですよ。
まあ、そりゃどうでもいい個人のつぶやきに反応が悪いのは当たり前だと思いますが……、それでも、自分はそれなりに面白いだろうと思って投稿する時事ネタとかよりも、LGBTネタの方が、ガンガン反応が来るんです。それは、そういうオーディエンスを確立したのはお前自身なのだから、当たり前だろと言えばそれまでなんですが。
んで、そういうすごくロイヤルな読者層がいてくださる傍らで、最近はそういう人たちのニーズに全然応えられてないなーという良心の呵責みたいのもあったりするわけなんです。一時に比べてLGBTネタについてあまり言及していないので。
今まだまだ日本語での情報のニーズってないわけではないと思うので、そういう「ニーズ」に応えられてないことに対して軽い罪悪感みたいなものを感じることもあります。自分のなかのパッションは今別なところに向かっているんです。
なんだろう。
わたしは、相変わらずクィアだし、それが自分のなかの一部であることに変わりはないんだけど、なんかそこ「だけ」にフォーカスするつもりは今全然ないんですよね。むしろ、それ「以外」のことをやりたい。
トランプ大統領どうこうとか、移民政策を始めとする政策は自分に直結してくるし、ビジネスとかについてもそうです。今はどっちかというとそっちを頑張りたい。英語もうまくなりたい。でもだからといって、それらの活動が「LGBTと関係ない」のかというとやっぱりそれも違います。
わたしが非ヘテロであることは、確かに、自分の一部にしか過ぎない。けれど、それにしても自分の重要な一部。そこを消し去った「自分」は、どんなにごまかしても何か、どっか違うんですよ。だから、そこに触れないで、知らん顔してるって、どこかで知らないうちに無理してるんです。
やっぱり、当然のように「ヘテロ中心」なコミュニティーって生きづらいし、いろいろと面倒なんですよね。だから、わたしの今のテーマはそういう場所に言ったからといって「クィアスイッチ」を切るわけではなくて、どんな種類の「場」でも、自分らしくあり続ける、ということ。そして、「彼氏いるの?」とか「女の人ってそうじゃない?」とか、そういう流れのなかで見つかる細かい「引っ掛かり」を丁寧に取り除いていくことによって、そういう「普通の場」に「クィアな視点」を持ち込むこと……だったりします。
必ずしもレインボーフラッグを掲げて行進することではなくても、自分自身に嘘をつかず「常に自分自身でいる」だけで、割と大きな挑戦だし、それによって自分も予想しないくらい大きな変化がもたらされたりする、ということを、最近では痛感しています。